30 桜島口
島と半島、溶岩つなぐ
島ではないこの山がなぜ桜島と呼ばれているのか?
この地を初めて訪れる観光客にとっては大きな疑問のひとつである。
もっともだ。
地図をひらけば、まぎれもなく大隅半島の一部なのだから。
地元の方には当然の常識だろうが、以前は「島」だったからだ。
1914(大正3)年の大正噴火により、桜島は大隅半島と陸続きになった。
噴火前、桜島と大隅半島の間には幅約360メートル、深さ約75メートルの瀬戸海峡があった。
大正噴火で流出した大量の溶岩は海を進み、噴火開始から約2週間で海峡を埋め尽くした。
そして、現在の姿になったのだ。
この接合部分周辺は「桜島口」と呼ばれている。
国道220号、224号、県道26号が交わる交通の要所であり、多くの自動車が行き交う。
島が島でなくなるというとんでもない出来事が起きた場所にもかかわらず、それを示す看板もなく、観光客の姿もみられないのが少し残念だ。
しかし、約1キロにわたって桜島と大隅半島が完全に地続きになっている姿は、改めて見に行く価値があるだろう。
(※2014年以降、「桜島口」の説明看板が設置された。)
大隅側と桜島側の景色は少し異なる。
大隅側は緑濃い森、桜島側はところによって岩肌が見える低木の林といったところだろうか。
100年前の新しい大地の上に深い森が戻るまでには、まだまだ時間がかかりそうである。
分厚い溶岩の下には、瀬戸という集落が眠っている。
ここには薩摩藩の造船所があり、幕末に日本初の洋式船の一つである「昇平丸」が作られた。
外国船と区別するために、日の丸が掲げられた船だという。
そのため、当地は日の丸発祥の地ともいわれており、近くにある道の駅たるみずには最近記念碑が建てられた。
大噴火のたびに姿を変える桜島。
火山活動に翻弄されながら、時代によって生活を変える人々の姿。
この「島」の地図は、今後も変化を続けてゆくだろう。
『南日本新聞』 2013年7月23日「桜島ルーキー日記(桜島口)」 ※筆者本人により一部加筆修正